カイロンと一本足のすずの兵隊
“19世紀の初め”
アンデルセンの“一本足のすずの兵隊”。子供の頃から大好きなお話でしたね。アンデルセンは1805年4月2日にデンマークで生まれます。この年は、土星と天王星が天秤座でコンジャンクション。そして共に山羊座のカイロンとスクエア。惑星に託されるギリシア神話の神々は、私達のサイキの様々な面を物語ると考えます。ということで、まずギリシア神話のクロノス(土星)とウラノス(天王星)から取り上げましょう。
占星学では、ギリシア神話のクロノス(Cronus)と並んで、「時を神格化」したものをクロノス(Chronos)と呼ぶことから、「時を司る神」とも解釈されます。私達は寿命という限られた時を生きているわけで、老いの定めから逃れることはできません。また「時」と言いますと、物事が実るまでの一定期間という意味もありますね。「桃栗三年柿八年」と言いますが、収穫の時が来るまで根気よく注意深く見守らなくてはいけない。自然の摂理に加速度をつけることは不可能。そしてまいた種と育て方に応じた結果を受け取るわけです。この点で、私達はクロノス、つまり土星の力なくして物事実らせることは不可能。
一方、天王星は天空の神ウラノス。大地に根を生やすことはありえません。飛行機の窓から地上を眺めますと、何もかもがチッポケに見えて何とも言えない解放感と自由に包まれますね。足場がなく怖いような気もしますが。思うに天王星のエネルギーは電気ショック、稲妻のようなもので、私達がトランジットの天王星に感応すると、突然目覚まし時計が鳴り出したように、しがらみから解き放たれて無限大の可能性が見えてくる。
ギリシア神話ではウラノスはクロノスの父親。息子クロノスは、天衣無縫な父ウラノスをいまいましく思い、二人は折り合い悪く犬猿の仲。親子争いが生じるのです。
ある夜、父親の寝床に忍び込んだクロノスは、父ウラノスを去勢。天界から追放してしまいます。父にとって代わって自分が実権の座についたクロノス(土星)。今度は我が子に権威を奪われることを恐れ、生まれた子供を次々飲み込みます。
このエピソード、自分が手に入れたものを意地でも放したくない保存欲求と同時に、新旧せめぎ合いを物語ると思えますね。
さて、ウラノス(天王星)に目を向けますと、この三次元の世界で誰も見たことがないもの、まだ形にはなっていないけど実現の可能性のあるアイデアを表すと思います。こう考えますと、皮肉なことに犬猿の仲のウラノスとクロノスですが、ウラノスのビジョンを結実させるには、クロノスの力なくしては不可能。つまり新旧交代が起こる時に何を残して何を手放すか。取捨選択ですね。そして新たなものが形になるまで待つ辛抱。この二つが大事なわけです。
1805年、アンデルセンの生まれた年に戻ります。19世紀の初め、このウラノスと
クロノスの鉢合わせ、つまりコンジャンクションが天秤座で起こったわけです。バラの花とシャンペンと音楽に包まれたアフロデイーテ(天秤座の支配星)のサロンで。
19世紀の初めはロマン派芸術の幕開け。芸術書によりますと、ロマン派のアーテイスト達は、人類の歴史の進歩はあくまで「各個人」の賜物である。ふんぞり返った権威にこびず、一人一人が自分の体験から湧き出た印象を素直に表現すべき、と考えたようです。
面白いことにこの潮流が生まれたのは、1781年天王星が発見されてまもなく。フランス革命とほぼ同時期に発見された天体に、人は「自由、平等、博愛」の精神を込めて、ギリシア神話の天空の神、ウラノスの名前を与えたわけです。
天文学者の皆が皆、神話学者や人類学者であったわけでもないのに偶然か必然か、この不思議。天空に住まう神々と地上の人間は常に共振共鳴し合っている、と私は考えます。
当時の人達は稲妻のような電気ショックに打たれて、社会の慣例や因習を超えた新しいものを表現しようと試みたのでは。事実、19世紀前半は印象派の絵画、ロマン派の音楽、情感豊かな多くの作品が生み出されます。
アンデルセンはこういった宇宙のお天気模様の元に生まれた。つまり、この瞬間の惑星の配置が、彼の人生の気象図だったわけです。
“一本足のすずの兵隊”
“あるところに20と5人のすずの兵隊さんがいました。みんな兄弟です。でも一人だけ少しちがった兵隊さんがおりました。足が一本しかなかったのです。”
こんな出だしで始まるお話。つまり一本足のすずの兵隊さんは不具者で生まれついたのです。オモチャの兵隊さんです。同じ部屋のテーブルの上に飾られている踊り子さんの人形に恋をして、そこから兵隊さんの長い長い旅のお話が始まります。
“兵隊さんは来る日も来る日も、まばたき一つせず、じっと踊り子さんを見つめていました。ところが意地悪い風が吹いてきて、突然窓があいたかと思うと兵隊さんは3階の部屋からまっさかまに落ちて行きました。
今度は雨がふり出します。どんどんひどくなってどしゃ降りの中、どぶに落ちた兵隊さんはどこまでも流されていきます。それでもまばたき一つせず、肩には銃をかつぎ、まっすぎに前を見すえています。
「これから一体ぼくはどうなるのだろう。」と兵隊さんが思ったとき、突然ものすごい音がして兵隊さんは、どぶから今度は運河へと流されていきました。
もう二度と踊り子さんに会うことはないんだなあ。兵隊さんの耳には勇ましい歌が鳴り響きます。「連隊、進め。前へ進め。」
そして何か大きなものの中に飛びこんだと思ったら、魚のお腹の中です。兵隊さんは大きな魚に呑み込まれてしまいました。中はまっ暗。
ついには何もかもが鎮まりかえりました。と思うと当然明かりがさしてきて、誰かの大声が聞こえます。「まあ、一本足のすずの兵隊さんよ!」
つまり兵隊さんを呑み込んだ魚は漁師に釣られて魚市場に運ばれ、それをメイドさんが買って家に持って帰って、お腹をあけてみたら一本足の兵隊さんがでてきたわけです。
こんな不思議なことが世の中にあるのでしょうか。兵隊さんは巡り巡って、また元の家の元の場所に帰ってきたのです。子供たちが遊んでいて、テーブルの上にはあのきれいな踊り子さんが立っています。
兵隊さんは踊り子さんをみつめ、踊り子さんも兵隊さんを見つめました。二人はなにも言いませんでした。
次の瞬間、小さな男の子が兵隊さんをつかんで暖炉の中に投げ込みました。兵隊さんの体はめらめら熱くなりました。それが暖炉の熱のせいなのか、恋の炎のせいなのか、兵隊さんにはわかりませんでした。色もはげおちていきましたが長旅の疲れのためか、悲しみのためか、それもわかりませんでした。
今度は風が吹いてきて窓があいて、踊り子さんも風にさらわれ暖炉に投げこまれました。
よく朝、メイドさんが暖炉の灰をかきだすと、ハート形のすすのかたまりと、踊り子さんの焦げついたスパンコールのかけらがでてきました。“
9才か10才の頃でしょうか、この話を布団の中で読んだのは。子供の私は、この理不尽さが受け入れられず、読むたびに怒りで目の前が暗くなりましたね。「兵隊さんは何も悪いことをしていない!誰が悪いの!魚?男の子?」この不条理に腹を立てて、もう二度とこんな本は読まないと心に誓い、本棚にしまいこむのです。
ところが不思議なことに、ものの2週間もするとまた読みたくなる。悲しく、もろく、弱く、その奥に深い美しさが流れている。この話には私を磁石のように引きつける魅力があったのです。
今にして思えば、この物語には途方もないヒーリング・パワーがあったのですね。私の中の何かが癒された。そしてこの思い出は私をカイロンの世界へといざないます。
ここでギリシア神話のカイロンについて考えたいと思います。神クロノスが馬に姿を変えて、人間のピリュラーと交わってできた半身半馬のカイロン。
二つの大きな特徴がありますね。まず一つ目。半分神様で半分人間。半分人間で半分野獣。つまり言い換えると神でも人でもない。人でも獣でもない。どこにも属するところのないアウトサイダーなんです。そして二つ目。ヘラクレスが誤って放った毒矢に撃たれたカイロン。自身、優れた治療師だったのに自分の傷は治すことができず、死だけが唯一の解決策という皮肉。
これを考えますと、「カイロンはヒーリングの星だ。」なんて言いますけど、決して処方箋をくれる薬剤師ではないんですね。極めつけの特効薬ではなく、むしろ生涯癒えることのない不条理でいわれのない傷とどのように共存するか、その内的な知恵を授けてくれる存在だと私は思います。
アンデルセンのホロスコープを見ますと、1室山羊座のドラゴン・ヘッドの横にカイロンがありますね。そしてこのカイロンは、9室天秤座(MC近く)の土星、天王星とスクエア。さらに3室牡羊座の太陽とTスクエアを形成しています。
1室山羊座にドラゴン・ヘッドとカイロンがあれば、その人はどんな思いで自分を取り巻く世界を眺めるか。世の中には、家族のブラック・シープ、社会のアウトサイダーとして疎外感を味わう人も多いと思います。さらに自分の才能や可能性が、時勢の波で、社会の権威によってつぶされてしまったら。その人は社会が抱える集合的な傷を、おそらく自分の痛みとして感じるでしょう。「痛み」は新聞のニュースではなく自分の心の中。
ウイキペデイアによりますと、アンデルセンは子供の頃から豊かな想像力と知性を発揮した、と。文学をこよなく愛し、自分の部屋に人形の劇場を作って、劇を演じてみせたそうです。ところが1816年、11才の時に火事で父親を亡くして生活は一転。タバコ工場に働きに出ていじめられ。そして14才の時、一人でコペンハーゲンに移って俳優の職を探します。幸い美声を認められてデンマーク王立劇場で歌手として採用されますが、声をつぶしてこのキャリアも長くは続きません。友達に「詩を書くのが上手だから詩人になれば。」と勧められたのを真剣に受け止め、そこから文筆活動にいそしんでいったようです。
アンデルセンの作品、「醜いあひるの子」「人魚姫」。いずれもアウトサイダーの感覚が色濃くにじみ出ていますね。とりわけ片足で生まれてきた「一本足のすずの兵隊」。
こればかりは不遇を受け入れるしかない。例えばですね。火事で死んだ父親をどうやって生き返らせるか。つぶれた声帯をどうやって元に戻すか。不運としか言いようのない出来事が受け入れられなければ、自分の怒りで自分の人生がつぶされてしまいます。とりわけ責めるべき加害者が見つからない時、私達の怒りは倍増します。
(注!このことはリズ・グリーンの著書“Barriers and Boundaries”の中に詳しく書かれていますので、関心のある方はぜひご覧ください。)
“カイロンと海王星:1オクターブ高い星”
何故かカイロンを思う度、海王星が浮かびます。カイロンは乙女座の支配星という説もありますが、そうだとするなら、対角の魚座の支配星、海王星から学ぶもの大。対角の星座は1枚のコインの裏表のようなもの。全く異なる顔を見せながら、正反対の方向から同じテーマに取り組むと考えます。乙女座の勤勉実直さは、魚座の献身的な思いに支えられてこそのもの。人智を超えた“おおいなるもの、聖なるもの”に捧げたいという願い。
これがなければ乙女座は、やみくもに忙しがって日々走り回り、他人の重箱のスミをつつくだけで終わってしまいます。
さらに海王星は1オクターブ高い木星で、木星は1オクターブ高い金星と言われますね。
以前、ベルギーのブルージュの街を訪れた時のこと。なんとも愛らしく、こじんまりと垢抜けたたたずまいに息をのみましたね。私の目は宝石のようなチョコレートの箱とレースのハンカチに釘付け。町は観光客であふれかえっているのに、商業化されていない印象を受けるのです。教会はいまだその厳粛さを備えています。
ブルージュの歴史のカケラも知らない私は、付け焼刃で“街の歴史”を買って読んでみましたところ、ブルージュの街が盛えたのは15世紀のルネッサンス期。ところが黄金期も長くは続かず、15世紀末には衰退へと向かいそこから400年、街の人達は貧困を強いられます。産業革命の恩恵にも与らず工場を建てる軍資金もなく。過去の化石のように取り残されていったそうですが、そのおかげでブルージュの街は昔のたたずまいをそのままに残すことができた、と。そして400年の苦境を経て19世紀末から観光業で再び活気を取り戻していったそうです。
この歴史のくだりで、金星、木星、海王星のつながりが初めて一本の線上につながった思いがしましたね。つまり金星が表す個人的な歓びの領域、心を込めてチョコレートを作る、レースのハンカチを仕上げる。これがひいては木星が表す「社会の繁栄」へと発展していく。ことろが世の中いたって不条理なもの。良き思い、良き行いにもかかわらず、私達は不遇を強いられることがあります。海王星が表す「慈悲の心」に達するには、時として理不尽な逆境を受け入れなくてはいけない。
海王星の「救済」の域を目指すならば、まずは心を満たす何かを丹精込めて作り上げる。そしてね、耐え難い苦境に陥った時、カイロンは海王星の「神への信頼」という助けを得て、人生なんとか耐えうるものにしようとするのですね。
“ヒーリングと救済”
アンデルセンのホロスコープでは金星は3室魚座に。そして海王星(11室蠍座)と
120度。さらに海王星は木星(12室射手座)のすぐそばにあります。木星と海王星の願いに忠実に仕える金星で、よく編み上げられたチャートという印象を受けます。
そしてこの三者の願いはカイロン(1室山羊座)に運ばれますね。さらに天王星と土星のコンジャンクション(9室天秤座、MC近く)。「含蓄あるオリジナテイーをもって自らの体験を表現する」ことを天職として、1室のカイロンは真摯に考えたと思います。これら全て、星の神様の声が練り合されて、ホロスコープの総指揮官、太陽に届く。アンデルセンは「書くこと」をライフワークとして人生のテーマに取り組んだのですね。
11才で父親を亡くした時、トランジットのカイロンは出生図の冥王星(2室魚座)の上にあり、さらに月(5室牡牛座)と60度。崖から谷底に突き落とされる思いで、受け入れるにはあまりに幼かったのでは、と勝手な想像をしてみます。
そして「1本足のすずの兵隊」ですが、アンデルセンはこの作品、土星回帰直後、トランジットの土星がMCを通過した時に書いています。自分の中で到達目標、表現したいものが結実したゆえの作品と私は感じます。
同時にトランジットのカイロンはデイセンダント上に。つまり彼のカイロン、心の傷は長い長い内的な旅を経て初めて地平線上にお目見えした。大衆の面前に現れたわけです。
子供時代の辛い体験に何らかの意義を見出す努力を重ね、濁りないエッセンスを抽出した。
その結晶化が1本足の兵隊さんの長い長い旅の物語に思えるのです。アンデルセンは自分の傷を人と共有することで、多くの人を慰めたわけです。
1875年8月4日、アンデルセンはこの世を去ります。亡くなる直前、「自分の棺の後をついて歩くのは子供だから葬式の曲のテンポを子供の歩幅に合わせてくれ。」と作曲家に頼んだそうです。
アンデルセンが亡くなった時、トランジットのカイロンはIC上にありました。ICは魂が回帰する、人が生れて再び還っていくところ。彼の魂はカイロンと共に神の家に還っていったように思えます。
私個人の見解ですが、ホロスコープから人の死期を言い当てることはできない。但し亡くなった瞬間のホロスコープから、故人が残してくれた「メッセージ」の意味を考えることはできると思います。
一生、何一ついいことのなかった兵隊さん。最後は暖炉に放り込まれて一巻の終わり。兵隊さんはただ無力だったのか。ただ役立たずだったのか。癒されたのか癒されないのか。
昨今、テレビ雑誌を見ますと「ヒーリング」という言葉が頻繁に出てきますね。ここで「ヒーリング」の意味するものは、と考え込んでしまいます。人生から健全な何かを奪う悲劇に、なんとか論理的な答えを見つけようとしてですね。病気を食べ物のせいにしてみたり、不慮の事故を社会のせいにしてみたり。やっきになりますが、残念ながらどのように有害物を締め出そうとしても、理由のない不遇な出来事は世の中に存在するわけです。1本足で生まれついたり、何も悪いことをしていないのに不幸のどん底に突き落とされたり。「論理性」はカイロンには歯が立ちません。
ですけれども、私は「救済」は起こりうると信じます。もっともっと深い領域でね。肉体的回復は望めなくても、サイキの奥底の輝きを求め続ける限り起こりうると信じます。
カイロンは、神のはからいに身をゆだね慈しみの心を育む、私達の心の力を表すように思います。「1本足のすずの兵隊」はカイロンが形をとってこの世に現れた一つの姿で、魂の慰め。最後に残されたハート形のすずのかたまりがその証しだと、私は信じたいですね。
●文中「すずの兵隊さん」新潮文庫「アンデルセン童話集」より
●英国占星学協会会報 “The Astrological Journal” 2009年3,4月号より献
“Hans Christian Andersen : Chiron and “The Steadfast Tin Soldier” “ の日本語訳